「オールピスト」はパリのポンピドゥー・センターの映像祭のひとつです。日本とアジアの芸術環境をより広げていくため、ポンピドゥー・センターによってセレクション、準備されたプログラムを2012年より「オールピスト東京」として東京で開催されます。
4回目となる本年、オールピスト東京は「ディスカバリー(発見)」をテーマに、アンスティチュ・フランセ東京を皮切りに都内各所にて6月に開催します。
“ディスカバリー”は、作家エレナ・ヴィロヴッチによる素晴らしい映画『バイ・バイ・タイガー』で幕が開きます。ユーモアと冒険に溢れた、真の「オールピスト(=枠にとらわれない、自由な)」な体験をすることができる、オープニングにふさわしい映画です。
今年のオールピスト東京は街の発見に出かけます。都市の本質を突く重要な作品群を通して、パリと東京で交差する視点(ギィ・ドゥボール監督『スペクタクルの社会』、山本政志監督『闇のカーニバル』。)を紹介します。また、街への別のアプローチとして、建築物を切断する「ビルディング・カッツ」で有名なアメリカ人アーティスト・ゴードン・マッタ=クラークのドキュメンタリーも上映。ユーリ・アンカラーニ監督『モダーンズの記憶』は、彼の生まれた場所アドリア海沿岸の環境における進化を多角的に捉えた作品です。
また、オールピスト東京は毎年、重要なアーティストに焦点を当てたプログラムも用意しています。今年は「アンダーグラウンド・フィルムの帝王」と呼ばれる巨匠・金井勝を取り上げます。シュールレアリズムに貫かれた彼の映画は、まさにちりばめられた視覚の宝石と言えるでしょう。
他にも、本映像祭では、フェミニズムをキーワードとした「闘争」にも着目し、闘争ヴィデオのパイオニアであるキャロル・ホソプロスの作品も上映します。
加えて、新星アーティスト達の発見の旅にも出ます。映画におけるアイデンティティを既に確立している才能溢れる監督イザベル・プリムや、ハーバード大学の民俗学研究室にて教育助手を務めるステファニー・スプレーがパチョ・ベレスと監督した作品等。映像祭は「知覚の旅」とも言えるドキュメンタリーの新しい形を産みだしたステファニーとパチョの作品『マナカマナ』にて幕を閉じます。

 

関連イベント(展覧会)
会場:アンスティチュ・フランセ東京 ギャラリー(2F)

Film installation and special projection,”Tarzan Exhibition”

空から伸びるつるからつるへと飛び移るターザン Tarzan がいる。だが、そのつるは木々の根であった。地上にある巨大なジャングル の根が、地下世界まで伸びていた。

(STATEMENT)
例えば映画館における映像鑑賞は、プロジェクターがスクリーンに投影する一つの映像と向き合う形で座席に座り、一定時間が経つと席を離れるという非常にシンプルな環境にありますが、展示空間における映像作品の発表形式はより流動的で、鑑賞におけるインターフェースも多様なものになります。

現在「映像」は、生活レベルから展覧会に至るまで様々な局面で利用されており、それをとりまく環境もめまぐるしく変化しています。3D化やインタラクティブ化をはじめとする技術の進歩、ネットやソーシャルメディアの普及によって生じた情報の氾濫と共に、作家にとっては手法を選択することの困難さが生じていますが、ポジティブに換言するなら「選択する」ことに作家の意図が介入することが可能になったとも言えるのではないでしょうか。それは制作者にとっても鑑賞者にとっても、映像との関係性に対して意識的であるかどうかによって映像体験の質が大きく変化するということでもあります。

今回は、多様なモチベーションと多彩なメディアを持つ作家が集まる展覧会を統一する方法として、「物語」を利用した試みを行いました。具体的には、ある一つの物語の骨子を作り(「空から伸びるつるからつるへと飛び移るターザン Tarzan がいる。だが、そのつるは木々の根であった。地上にある巨大なジャングルの根が、地下世界まで伸びていた。」)、個々の制作・プライベートな振る舞い、問題意識等の位置付けを、その「物語」への介入方法をもって行う試みです。その過程で生まれた個々の物語は具体的な何かを言明するわけではありませんが、ゆるやかな差異をもってそのありようを表明するのではないでしょうか。この試みが様々な道のありようを現前させると同時に、三人称的な説明がすくいとることのできない、個々の想像やイメージの領域を登記することも期待しています。

 

(PROFILE)

©Shu Isaka

伊阪柊 Shu ISAKA

現在、地質をテーマに映像のあり方を考えている。インド北部のヒマラヤ地帯が舞台で,インド亜大陸のユーラシア大陸への衝突という事件の周辺に建築物と映像の関係性を導き出すといったフィクションを考案しようと思う。ただしそのフィクションの発端となったのはコルビュジエが計画した都市のすぐそばには巨大な断層があるという事実である。

 

 

 

©Mariko Sugihara

杉原まり子 Mariko SUGIHARA

1990年生まれ。日比のハーフ。映像を通して本来人間同士だけでは担えない交流の仕方を生み出そうとしている。主な作品に「お母さんの名前」(2014東京藝術大学卒業作品買い上げ賞)など。

 

 

 

 

 

©Hitoshi Takeuchi

竹内均 Hitoshi TAKEUCHI

映画/映像メディアの自律性と可能性を考察し、探求している。福祉や介護、医療の現場における当事者と非当事者との境界をテーマに制作活動を行っている。主な上映•展示は、”hope house”(KINOHAUS、下高井戸シネマ)、”END_TV”(オーディトリウム渋谷)、”Bethel House”(アンスティチュ・フランセ東京)など。

 

 

 

 

©Shinichi Tanaka

田中慎一 Sinichi TANAKA

閉所、夜の灯、人のぬくもりと独りになることへの恐れ。夢の中で、あるいは白昼に呼び出された記憶と感覚は、既に輪郭を失っている。

「都市」で育った幼少の記憶から自身の体質を考察し、その身体感覚を紙、蝋、明かりなどの素材を用い、再構築している。

 

 

 

 

 

©Narumi Sasaki

佐々木成美 Narumi SASAKI

絵画、彫刻、映像、など多様なメディアを扱い、作品制作を行う。常に人間をモチーフとして扱い、人の普遍的欲望を探る。1990年広島に生まれる。主な展示・受賞歴は、トーキョーワンダーウォール賞、上野芸友賞、MEC Award入選展、トーキョーアートアワード2014。また、2014年7月と11月に個展を予定。

 

 

 

 

 

©Yuma Matsumori

松森裕真 Yuma MATSUMORI

僕は自分がなりたいものの重要な要素、性質を作品にしている。なりたいものは基本的に人ではなく、具体的な動物などでもない。僕が捉えた人としての生きずらさを克服する、もしくは逃避させてくれる性質、要素を備えたものだ。現代に生きているたった自分一人をみても、まだまだ生きづらいというのに、人は永遠にこの形態をしているのだろうか。

 

 

 

 

 

©Ayana Matsubara

松原史奈 Ayana MATSUBARA
言語以前のイメージが生成される過程や、地理や言語、文化等の様々な要因が無意識下で知覚や認識に影響を与えることに関心を持つ。言葉の不可能性がその表象の差異にあるのだとしたら、個々の表象の差異を検分することが理解への一歩になるのではないか。無限に生み出される「個」の言葉と、永遠に変化し続ける「個」の表象、それらの公倍数は人類の普遍的なイメージへ繋がるのか。その差異の一つひとつと向き合うことは出来るのか。言葉が意味を剥離され、声や呼吸に還元される瞬間に表れる「何か」の可能性を追求してみたい。

 

 

 

 

お問い合わせ:www.horspistestokyo.com

 

 

 

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  • 2014-06-07 - 2014-06-22
  • アンスティチュ・フランセ東京
    〒 162-0826
    15 新宿区市谷船河原町 東京都

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