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7月9日よりアンスティチュ・フランセ東京エスパス・イマージュにて上映活動を再開し、3月に中断した「第二回映画批評月間」を再スタートするにあたり、3月14日に行われたオリヴィエ・ペール氏によるジャン=ピエール・モッキーについての講演を以下に訳出します。

馴染み深く、マージナルな映画作家モッキー

2019年8月8日に90歳で他界したジャン=ピエール・モッキーは、フランス映画の中でよく知られた、馴染み深い存在であると同時に、マージナルな存在でもありました。ではどういった意味で馴染み深い存在だったのでしょうか? まずジャン=ピエール・モッキーは30年以上もの間、とだえることなく有名俳優たちが出演しているコメディや犯罪ものを監督し、フランスの映画製作を支え続け、またそれらの作品はテレビでもしばし放映されてきました。そしてまた数十年前よりテレビやラジオの番組の常連でもあり、ユーモアと不遜さを交えて、食ってかかることも躊躇せず、あらゆるテーマで自分の意見を述べ、逸話や作り話、挑発的、ときには下品な言動を通して、口の達者な監督という伝説を維持してきました。

 

ではよく知られた存在でありながらなぜマージナルだったのでしょうか? ジャン=ピエール・モッキーは、映画が商業的に成功しても、他の人たちのように映画を作ること決してなかったからです。クロード・ジディ、ジェラール・ウーリーのような商業的喜劇映画の監督とは関係をもつことなく、モッキーは一匹狼であり続けました。ヌーヴェル・ヴァーグと同世代であったモッキーは、その基本方針となった手法の一部を応用しながら、特異な道をひとり追求していきました。れっきとした映画作家とみなすことができるながらも、モッキーは世界の映画祭で賞賛されるような作家ではなかったのです。モッキーは大衆映画のために闘い続け、決してエリート主義や前衛的な道を歩むことはありませんでしたが、道徳的にも、経済的に独自のスタイルを維持し続けました。職人のように映画を撮り続け、時には日曜大工、あるいは便利屋のような気軽さで映画を作っていました( 彼のもっとも風変わりでいかれたなコメディの1本には、まさに『便利屋王』というタイトルが付けられています)。モッキーはつねに探偵小説や、フランス社会を観察し、三面記事や、政治的スキャンダルから着想を得ていました。この点において、モッキーは、ジャン=リュック・ゴダールの遠い従兄弟と呼べるのではないでしょうか。少なくとも彼らの共通点のひとつに、フランスで誰もがその名を知っていても、結局のところ誰もその映画を見に行かないという点が挙げられるでしょう。しかし活力に溢れ、明けっ広げなモッキーは、その晩年、あまり光が当たらなくなり、低予算で映画を製作し続けるも、それは彼自身の映画館で上映するほか、小さな民間テレビ局で放映されるのみでした。

 

それではこれから、フランス映画の中でももっとも奇抜な映画作家、エキセントリックな作品を数多く生み出したジャン=ピエール・モッキーに敬意を表し、今回の特集で上映される彼の代表作を紹介しながら、その軌跡を辿っていきたいと思います。ジャン=ピエール・モッキーは、1959年から2019年の間に約80本の長編映画と、何本かの短編映画やテレビ映画を撮っています。それらをすべてをここで列挙するのは無益であり、不可能でしょう。しかし、その中の幾つかの作品は、彼のキャリアの中で大きな節目となり、フランス映画史においても重要な作品とみなすことができます。

 

俳優として映画界デビュー、そしてイタリアへ

最初はテレビにて『レフェリーに死を!』——偉大な映画です——を発見し、そしてティーンエイジャーだった80年代に劇場公開された『奇跡にあずかった男』を発見、その後、90年代に彼が購入したパリの小さな映画館ブラディで上映され大成功を収めたブールヴィルとフランシス・ブランシュ出演の数々の作品、そして私が勤めるアルテにて彼の映画が放送される際に定期的にお会いするようになり、こうして私はジャン=ピエール・モッキーをつねに愛してきました。モッキーは息を引き取るその最期まで映画への情熱、俳優たちへの愛にその長い生涯とエネルギーを捧げてきました。メディアでのイメージを超えて、モッキーは真摯に受け止めるべき、重要視すべき映画作家です。そして彼はおおいに魅力的な人でした。この講演は、そうしたモッキーの仕事に光を当て、その作品への評価を高めることを目的としています。そしてモッキーの映画をはじめて発見するこの国で、こうしてモッキーのことをお話できること、それは私流のモッキーへとお別れの挨拶でもあります。彼もきっと喜んでくれるのではないかと思います。

 

そしてこの講演は、2013年8月に私がインタビューをさせて頂いた際のジャン=ピエール・モッキーの言葉を織り交ぜて行わせていただきます。

 

ジャン=ピエール・モッキーは監督になる以前、俳優として映画界にデビューしました。1929年7月6日、ニース生まれ、本名はジャン=ポール・アダム・モキエフスキー、両親はポーランド人、父親はユダヤ人、母親はカトリック教徒でした。ドイツ占領下、モッキーはユダヤ人の迫害から逃れるために田舎に身を潜めていました。1942年、マルセル・カルネ監督の『悪魔が夜来る』にエキストラとして出演。タクシー運転手として生計を立てていた彼は、ピエール・フレネーと出会い、彼の庇護下に置かれ、それによって舞台で最初の役を得ることになります。その後、国立高等演劇学校に入学し、そこで若きジャン=ポール・ベルモンドや、近い将来スターになっていく同世代の俳優たちと出会います。

1952年にはミケランジェロ・アントニオーニの目に留まり、『I vinti(敗北者たち)』に主演。この出演によってモッキーのイタリアでのキャリアが始まります。モッキーはローマに移り住み、何本かのイタリア映画に出演することに。しかし彼が興味を持っていたのはあくまで監督業でした。モッキーはフェリーニの『道』(54’)やヴィスコンティの『夏の嵐』(54’)の撮影にインターンとして参加します。

 

『壁にぶつかる頭』© Mocky Delicious Products

アラン・ドロンを筆頭に、ルックスのいい魅力的なフランス人俳優がもてはやされ、その競争も激しかった時代、そうした若手俳優たちにあてがわれる役にあきあきし、また俳優としての自分の才能に限界を感じていたモッキーは、監督になる方がキャリアを長く続けられるチャンスがあるだろうと理解していました。最初の監督作品として、モッキーは、精神病院での狂人の非人道的な扱いについて描いたエルヴェ・バザン原作の小説『壁にぶつかる頭』を脚色することにします。しかし、プロデューサーたちは彼を若すぎると考え、監督を任せることを躊躇します。モッキーは脚本を執筆し主演を務ることになり、短編映画の監督として確かな経験を持つジョルジュ・フランジュが監督を務めることになります。1959年に公開されたこの作品は、ヌーヴェル・ヴァーグの初期作品と同時代に撮られた、フランス映画の中で重要な作品です。監督を引き受けたフランジュは、シュールレアリスムから継承された、どこか幻想的な次元を本作に与えました。もしモッキーが監督をしていたら、よりむき出しの描写、現実主義的な作品にすることを望んだのではないでしょうか。

 

 

 

初監督作品『今晩おひま?』

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数ヶ月後、モッキーはついに初監督作品『今晩おひま?』を監督することになり、『壁にぶつかる頭』で一緒になったふたりの重要人物に声を掛けます。ひとりは『今晩おひま?』では脇役を演じていて、後に国民的大歌手、俳優となるシャルル・アズナヴール、もうひとりは当時まだ新人で、後に大作曲家となるモーリス・ジャールです。モッキーはその後も優れた作曲家たちに自分の作品の音楽を依頼し続け、傑出した映画音楽をたくさん生み出しています。モッキーは社会的慣行や社会現象に焦点を当てることを好んできましたが、『今晩おひま?』はモッキーのフィルモグラフィーのそうした社会学的系譜に属する一本と言えるでしょう。モッキーのこの系譜からは、カップルや若い女性のあり方、セクシュアリティ、あるいは群衆の暴力を題材とした映画が生まれています。『今晩おひま?』で題材となるのはずばりナンパ、どのように男性が女性を口説くです。取り憑かれたように女性との出会いを求めて彷徨う孤独な二人の男の物語で、彼らの試みのほとんどが悲惨な結果に終わるでしょう。

女性をどのように口説いてみせるというありふれた筋書きを越えて、ときに猥褻で、ときに残酷、あるいは愉快でもある寸劇が演じられ、モッキーの最良の作品たちの源泉となる要素がすでにこの処女作に見出すことができます。こうしたブラックユーモアや風刺の裏に、ロマンチシズムが見えてきます。モッキーのヒーローたちは、冷笑的なシニシズムの裏で、つねに不可能な純粋さを求め続ける理想主義者なのです。

 

『今晩おひま?』から抜粋:ジャック・シャリエはアヌーク・エイメの魅力に惹かれていたが、彼女が身障者であることを知ってしまい……。

 

『今晩おひま?』撮影風景 © Mocky Delicious Products

シャリエが演じる青年を特徴づけているのは、そのふがいのなさです。実在する女性と恋に落ちることは結果と責任を伴うことになるため、存在しない女性を追いかけることを好む、その卑怯さです。『今晩おひま?』の残酷で覚めた語り口は、その後に続くヌーヴェル・ヴァーグの作品よりも、60年代のイタリアの最良のコメディにより近いと思われます。

こうした初期の作品で成功をおさめた後、モッキーは、評価や商業的成功は作品によって様々ながらも、年に1本のペースで生涯とどまることなく映画を撮り続けていきます。60年代は大成功を収めた作品に恵まれた時期であり、言葉遊びやユーモアのセンスなど多くの点でモッキーと気のあった大作家レイモン・クノーと共同執筆した『カップル』(60’)、モッキーの嘲弄やグロテスクなセンスが表現された風刺コメディ『スノッブ』や、悲喜劇的な側面を持ち、『今晩おひま?』の女性版といえる『生娘たち』(62‘)を挙げられます。

 

国民的人気俳優ブールヴィルとの出会い、モッキーの俳優への愛

1963年、モッキーは決定的な出会いをします。俳優ブールヴィルとの出会いです。モッキーは、彼が好む、純情な心を持つ登場人物の完璧な化身をブーヴィルに見出すのです。フランスで非常に人気のある俳優ブールヴィルとモッキーは友情で結ばれ、ブールヴィルは通常出演していた作品よりもはるかに挑発的であるモッキーの作品に乗り出すことを快く引き受けました。『おかしな教区民』(63’)をはじめとして、1970年に癌によってブールヴィルが早過ぎる死を迎えるまで、ふたりは合計で4本のコメディでタッグを組みました。『おかしな教区民』は素晴らしいコメディであり、モッキーのフィルムグラフィーでも最もヒットした一本です。この作品には、冷やかし気味なモッキーではなく、俳優への優しさや愛情に満ちたモッキーの人となりが見えてくるでしょう。ブールヴィルだけではなく、モッキー作品に数多く出演し、笑いを誘ってきたフランシス・ブランシュやジャン・ポワレなど、脇役の俳優たちがみな素晴らしい。ストーリーは、ブールヴィル演じる没落貴族で熱心なカトリック信者の主人公が、パリの教会をまわっては、献金箱から小銭をくすね、一族の苦境を救い、お腹を満たすというもので、ひとときも私たちを飽きさせることがありません。この映画の持つ詩的でアイロニカルな側面は、モッキーの友人であった天才レイモン・クノーの小説世界を想起させます。

 

モッキーがブーヴィルを迎えて撮った次回作『言い知れぬ恐怖の町』は前作ほどの成功には恵まれなかったにせよ、フランス映画の持つデカルト的理性主義とはかけ離れた幻想的で奇妙なものへの嗜好を発展させ、モッキーのスタイルをとりわけ示している作品となっています。原作はジャン・レイというベルギーの幻想小説作家の作品で、やはりクノーの協力を得て脚色しています。

『言い知れぬ恐怖の町』からの抜粋:冒頭のワンシーン、死刑囚の男はギロチンから逃れ、死刑執行人は彼の首が逆に切り落とされてしまう。

 

『言い知れぬ恐怖の町』© Mocky Delicious Products

この映画、そしてこの抜粋は、モッキー映画の多くの優れた資質を示しています。まずその資質のひとつとして優れた演出が挙げられます。ジャン=ピエール・モッキーの作品を汚すような先入観をまずは一掃しましょう。やっつけ仕事で、雑に作られているとあやまって批判されることがあるモッキーの映画は、少なくとも1980年代の終わりまで、フランス映画で最も独創的で、精神を高揚させる作品を生み出すことに成功しています。シャブロル(フランス社会の嘲弄)、ポランスキー(不条理とブラックユーモア)、フェレリ(風刺的凶暴性)などの作家と並び、モッキーは長い間、フランス映画の中で、ユニークで、一貫性のある作品を撮り続け、芸術的創造力、反画一主義、滑稽なる喜劇のセンスを表現してきました。『言い知れぬ恐怖の町』は、ドイツ表現主義から活躍していて、フリッツ・ラング(『メトロポリタン』)、エドガー・G・ウルマー(『青ひげ』)、マルセル・カルネ(『霧の波止場』)などの映画の撮影を担当している偉大なドイツ人撮影監督、オイゲン・シュフタンによる極めて美しいモノクロ撮影からも恩恵を受けています。

 

そして本作で描かれるギロチンについても触れましょう。1978年に撮られた『目撃者』のように、『言い知れぬ恐怖の町』はとりわけ辛辣な方法で死刑について語っています(映画の冒頭では、偶然にも首を切られた死刑執行人が登場します)。モッキーはインタビューで次のように述べていました。

 

たしかに1964年に撮った『言い知れぬ恐怖の町』では、1978年の『目撃者』の時と同様、私は死刑への反対意見を表面しました」。(モッキー)

 

モッキーは、1981年に死刑が廃止される以前、つまりフランスでまだ死刑が適用されていた頃、何本かの作品で死刑への反対をはっきりと表したフランス人映画監督の一人でした。死刑への反対を作品に込めた監督全員が左翼主義だったわけではなく、その中にはクロード・ルルーシュ(『愛と死と』、69’)やジョゼ・ジョヴァンニ(『暗黒街のふたり』、73’)、あるいはポール・ヴェキアリ(『マシーン』、77’)のように右翼であったり、非政治的な監督もいました。モッキーは、その不遜なほどのユーモアのために、つねにアナーキストと認識されていましたが、彼自身はその表現を認めず、自らを社会主義者とみなしていました。

 

『言い知れぬ恐怖の町』でも主役を演じているブールヴィルについてふたたびお話しましょう。本作においてブールヴィルは、その後にモッキーと再びタッグを組むことになる『大洗濯』(68’)や『種馬』(69’)と同様に、腐敗し、不誠実な世界の中で、善良さと理想主義を体現した人物とし登場しています。ブールヴィルは、逃亡した偽札偽造者が犯罪を犯し、再び死刑を言い渡されるのを防ぐために、その男を探しに旅に出る警官を演じています。

 

ブールヴィルはこのヒューマニストな登場人物をとても気に入っていました。私は彼に金髪のカツラを被らせ、スコットランド風のバイキングにしたいと思いました。私たちが一緒に撮った4本の映画の中で、ブールヴィルはつねに子供や夫、貧しい人々、そして『言い知れぬ恐怖の町』の場合では犯罪者を救うため、十字軍の遠征に出る(しかし無宗教の)宣教師を演じてきました」。(モッキー)

 

モッキーは、『言い知れぬ恐怖の町』でも他の作品でも、フランス映画史において神話として語られながらも、他の監督がもう使うことがない俳優たちを迎えるという独創的なアイデアを持っていました。

 

『言い知れぬ恐怖の町』© Mocky Delicious Products

私は本作で、ブールヴィルのまわりに、たとえばジャン=ルイ・バロー、レイモン・ルーロー、ヴィクトル・フランセン、さらにはフェルナン・グレイビーら、戦前の俳優たちを登場させたいと思いました。(…)そこが私とヌーヴェル・ヴァーグの仲間たちとの大きな違いでしょう。トリュフォーやシャブロルは批評畑出身だったから、撮影現場で大俳優たちと対峙することを恐れていました。だから彼らは同世代の俳優、ジャン=クロード・ブリアリやジェラール・ブラン、ベルナデット・ラフォンら、新人の俳優たちと撮り始めたのではないかと思います。業界の中で私はすでに俳優として認知されておて、ギャバンとも共演したことがあり、シュトロハイムやジュール・ベリーのアイスタントもしたことがあり、ルイ・ジューベの教え子でもあったことでも知られていました。こうしてすでに映画業界の中にいたことで、ヌーヴェル・ヴァーグの監督たちより聖なる俳優たちと呼ばれたスターたちと仕事ができ、彼らと近い存在でいられたのでしょう。私はそうした偉大な俳優たちに影響を受けてきましたからね。たとえば『赤いトキ』(75’)に出演してもらったミシェル・シモンもそのひとりです。ロベール・ル・ヴィギャン.とエリッヒ・フォン・シュトロハイムに自分の映画に出演してもらえなかったことだけは今でも悔やまれます」。(モッキー)

 

モッキーは『言い知れぬ恐怖の町』に出てくる登場人物たち全員にこっけいで、愉快な身ぶりをさせています。

 

当時は、イタリアのネオレアリズモから生まれ、ヌーヴェル・ヴァーグで継承された、技巧をそぎ落した美学、反=演技を擁護するかどうかという議論が起こっていました。フランス映画には俳優たちが誇張した演技を好む伝統があり、ヌーヴェル・ヴァーグの作家たちはそれに反対していました。私はしかしルイ・ジューベやサチュルナン・ファーブルの演技の癖がとても好きでした。そうしたかつての演技方法を再び取り上げたり、誇張したりして、同時代の監督たちとは異なる個性を出したかったのです。ブールヴィルがぴょんと飛び跳ねたり、レイモン・ルーローがいつも台詞の最後に「なに?」と付け加えたりするのはそうした理由からです。あまりにも平坦で、凹凸のないのっぺりしたキャラクターには昔から反対でした。俳優はなんたってピエロですからね。」 (モッキー)

 

言葉と役者への愛は、モッキーを1930年代のフランス映画、つまり詩的リアリズム、そして時に詩的幻想映画に結びつけています。

 

モッキーのB級犯罪映画

モッキーのフィルモグラフィーには、もうひとつ豊かな流れがあります。それは一連のフィルムノワールや犯罪映画の流れであり、モッキーは、コスタ=ガブラスやイヴ・ボワッセといった監督たちとはまた異なる方法でそうしたジャンルを開拓してきました。

『ソロ』© Mocky Delicious Products

コメディの監督と刻印を押されているジャン・ピエール・モッキーのパレットは通常思われている以上にバラエティーに富んでいます。彼のユーモアやファンタジーは、哀愁や暴力、悲劇さえも排除することがありません。このように、偉大な時代のモッキーは、B級犯罪映画の姿を借りたもっとも優れたフランスの政治映画を何本か生み出しています。『ソロ』(70’)は、1970年代から始動するモッキーの作品を貫く一連の作品の第一作目となります。

これら一連の作品の多くでモッキーは主演を務めています。そしてこれらの作品には一定した粗筋があります。それは一人の男が、腐敗や、暴力、あるいは日常にひそむ卑俗な出来事に直面するという筋書きです。そして彼は命を失うことになる。これら風刺的メッセージが込められた犯罪映画は、彼のエキセントリックなコメディとは対照をなし、撮られた時期のフランスやその制度の現状を確認し、記録することを目的としています。あらゆるまじめくさった考え方や、もったいぶった言説には流されることのないモッキーはむしろ三面記事や地元のスキャンダルから着想を得たり、セリ・ノワールとよばれるアメリカのミステリー小説から着想を得て、それをフランスの状況におきかえて脚色しました。

『ソロ』の出発点とは、68年5月革命の結果をその直後に分析することでした。左翼の若者たちが抱いた革命的な理想は、反ブルジョア的なニヒリズムへと変わり、それがテロ行為につながっていきます。そのテロ・グループのひとりの兄であり、個人主義的な詐欺師をモッキー自身が演じていて、彼は警察に先回りして弟たちにがこれ以上殺戮を繰り返さないよう、なんとか防ごうとします。『ソロ』は、アメリカのフィルム・ノワールの影響が感じられる、アクションと演出のアイデアに満ちたスピード感あふれる真夜中の追跡劇です。モッキーは一見するとシニックなアンチヒーローの役を堂々と演じています。モッキーのそうした演技、そしてジョルジュ・ムスタキのテーマ曲がこの作品を愁いを帯びたロマンチシスムで包んでいます。

 

『ソロ』以後、この作品に類似した作品が続き、すべてモッキーが出演しています。『あほうどり』 (71’)、『暴かれたスキャンダル』(74’)、『愚か者の罪』(79’)、『縫い目をほどく機械』(87’)などです。

 

傑作コメディたち 

それでは、今回の特集で上映される、モッキーのコメディの中でも最良と言える2本の作品をご紹介したいと思います。『赤いトキ』と『奇跡にあずかった男』です。この2本にあともう1本、不条理ユーモアの傑作である『しっ!』 (72’)も追加すべきなのですが、それはまた次回のお楽しみに。

 

まずは『赤いトキ』です。70年代半ば、フランスの制度、社会を激しく批判する、アナーキーで扇動的な作品を連続して撮っていたモッキーが、息抜きのように撮ったのが『赤いトキ』であり、不条理さと詩的な要素、ブラック・ユーモアをたっぷり散りばめ、犯罪映画の画一的なコードを覆してみせています。モッキーはアメリカの犯罪小説を題材として用いることが多く、ここでは「セリ・ノワール」(暗黒・犯罪小説叢書)の一冊として出版されたフレデリック・ブラウンの『3、1、2とノックせよ』をもとに、風変わりで、怪物じみていながら、それでも心惹かれる登場人物たちの住む世界を描いています。

『赤いトキ』© Mocky Delicious Products

モッキーはつねに俳優たちを愛してきましたが、本作ではミシェル・セローとミシェル・ガラブリュが、これまでの道化的な役柄とは離れて、演技の幅を広げ、哀感をそそる人物を作り上げています。セローが演じるのは孤独で、引っ込み思案なサラリーマンであり、子供の頃の性的トラウマによって女性たちを襲う連続絞殺者を演じ、対するガラブリュが演じるのは元タンゴの踊り手で、美しい妻(エヴリーヌ・ビュイル)を愛していながらも離婚を求められ、かつポーカーの賭けで多額の借金を抱え、ギャングたちに追われている男です。そして本作が映画での最後の出演となったミシェル・シモンが演じているのは、年老いた新聞売りジジで、口やかましく、虚言癖で、厭世的で、これまで彼が演じてきた役柄、イール氏(『パニック』、46’)、ブデュ(『素晴らしき放浪者』、32’)、ジュールおじさん(『アタランタ号』、34’)、すべての役柄の記憶を呼び起こし、その存在にはただたた心揺さぶられます。そのジジの唯一の友だちはお洒落なスーツに身を包んでバナナ好きな黒人の少年です。この三人のミシェルのほかにも『赤いトキ』は、脇役からエキストラに至るまで、精彩に富んだ人物たちが数多く登場し、モッキーのキャスティングの妙を見ることができます。風変わりな顔、遊び心溢れた小道具、おかしな服装や口癖、身体的ハンディキャップ……。この風変わりな人々の集団、いかがわしい界隈は、モッキーの演出によって、あらゆる社会階級が渾然一体となったフランスの鏡として見えてきます。本作は、ほとんどのシーンがサン・マルタン運河沿い、界隈で撮られていて、戦前のフランス映画の古典作品の中で描かれる大衆的なパリを想起させます。たとえば『おかしなドラマ』(37’)、『北ホテル』(38’)、『アタラント号』(34’)などの記憶が甦ってくるでしょう。詩的レアリスムの伝統を風変わりな嗜好で味付けしたモッキーは、中央アジアの映画作家たちの作品、たとえばポランスキーの『テナント/恐怖を借りた男』(76’) やキューブリックの『時計じかけのオレンジ』(71’)などに見いだせるグロテスクでファンタスティックなユーモアのタッチもそこに付け加えています。

『赤いトキ』© Mocky Delicious Products

モッキーを、大きな予算と十分な撮影期間に恵まれていたこれらふたりの完璧主義者と比較するのは奇妙に思われるかもしれません。たしかにモッキーは少ない資金や短い撮影期間と、困難な状況でつねに映画を撮っていましたが、そのことはモッキーが東ヨーロッパの文化やドイツ表現主義、ユダヤ人的ユーモアに根ざした自然主義とはかけ離れた美学と才能を発展させることを妨げるものではありませんでした。『赤いトキ』の夢幻的な雰囲気、熱狂的なリズム、モッキー独特の演出方法、いつまでも頭に残る、繰り返させるテーマ曲、常軌を逸した俳優たちの演技、モッキー映画のこうした特徴が詰まった本作は、『あほうどり』(71’)という傑作も撮っているこの映画作家がフランス映画の中でももっとも我々を熱狂させる映画作家のひとりであることを確認させてくれます。権力を批判し続けるとともに、茶目っ気あふれるモッキー、彼の創意に富んだその演出方法、映画への情熱、そして彼の最良の作品たち−—それは決して少なくありません!——を活気づけている俳優たちへの愛情を私たちは忘れることはないでしょう。

 

最後に『奇跡にあずかった男』をご紹介しましょう。

『奇跡にあずかった男』© Mocky Delicious Products

非合法すれすれでなんとか暮らす気ままなパピュ(ジャン・ポワレ)は、保険金欲しさに事故で足が麻痺したと偽り、献身的な元娼婦のサビーヌ(ジャンヌ・モロー)を引き連れてルルドへと偽の治癒旅行に出発します。警察の失態から無言になった保険屋のフォックス=テリエ(ミシェル・セロー)は、騙しの目利きでルルド行きの列車にも乗り込んで、彼の正体を暴こうとします。あらゆるトリック、変装、トリックを駆使して犯人を現行犯で捕まえようとする追跡劇の筋は、『おかしな教区民』や『種馬』、『大洗濯』を彷彿とさせます。『奇跡にあずかった男』は、喜劇コンビ、ポワレ=セローの再会をまばゆいばかりの形で刻印しています。優雅な俳優ポワレが小汚く下品な浮浪者、セローは滑稽で口のきけない保険業者を演じており、モッキー映画の常連であるふたりはこのミスキャストをおおいに楽しんでいるように見えます。まるでオーギュストと白い道化師のようなにも見え、映画全体がサーカスや手品を使った縁日の見世物を見ているかのようです。

『奇跡にあずかった男』には不条理で詩的な発見がたくさんあり、社会風刺や反宗教的な告発を超えたシュールレアリスムなユーモアに溢れています。病人は包帯をはずされると顔がなくなっており、車は曲がり角近くの家の壁に激突し、若い修道師は情熱的なジプシーの女性がパンティーを履いていないことを知ってトマトのように赤くなり、はたまた双子の兄弟がハゲワシの鼻をつけていたり……。モッキーは、この縁日のような作品で多種多様な人々をこれまで以上に鮮やかに浮かび上がらせてみせます。そしてこうした人々のサーカス、大人のための遊び場のような本作は、バンド・デシネ(漫画)や喜劇映画『ヘルザポッピン』(*1)やマルクス兄弟風のバーレスクにも比較できるでしょう。

『奇跡にあずかった男』はまた、特殊メイク、小道具、変装など、視覚的ギャグも豊富に用いられています。

 

『道』(54’)でフェリーニのアシスタントをしていた頃からサーカスとピエロにおおいなる憧れを抱いてきました。それにセローもピエロが大好きなのです。」 (モッキー)

 

フランス本国の先行封切りで80万人以上の動員数を記録した『奇跡にあずかった男』はモッキーでフィルモグラフィーでももっとも商業的に大ヒットした作品のひとつとなる。

『Agent trouble』撮影風景© Mocky Delicious Products

しかし逆説的にも、この大成功は彼のキャリアの不可逆的な衰退のきっかけとなってしまいます。その後もモッキーは、たとえばカトリーヌ・ドヌーヴを主演に迎えた『Agent trouble』(87’)など、優れた作品を幾本か撮りましたが、一本の失敗作(『国民会議の夜』、88’)のため、モッキーと映画業界との関係はギクシャクしていきます。モッキーは自分の作品を満足のいく形で配給、興業させていくことがますます困難になっていきます。映画作家として生き残っていくために、モッキーはそれでも次々に映画を撮り続けますが、彼を誹謗する者たちに、いい加減な仕事をしていると批難させる理由を与えてしまいます。90年代、2000年代、2010年代、モッキーは数多く撮り続けるのですが、彼に栄光をもたらすことはありませんでした。フランス映画の偉大な俳優たちに比肩しうる人気俳優を見出そうとするもなかなか実現しませんでした。

モッキーはしだに映画業界の中心から逸脱し、孤立し、予算的、技術的手段はますます減少し、苦い思い、悲しみを抱えながら映画を作り続けました。アラン・カヴァリエやゴダールとは異なり、モッキーはそうした周縁で映画を撮ることを自発的に選んだわけではありませんでした 。カヴァリエやゴダールは、古典的な製作体制を放棄し、一人称で語る映画を選び、自ら孤高の映画作家となっていきましたが、モッキーはその意に反してマージナルな存在にならざるを得なかったのです。経験豊富な技術者も、お気に入りの俳優もいなくなったモッキーの映画は、その活力を失っていきました。

 

 

最良の意味における大衆的映画作家モッキー

ジャン=ピエール・モッキーは、ささやかな人間喜劇を描いた映画作家であり、それらは年月とともに「奇跡の小路」へと変化していきました。モッキーは自分をモラリストではなく、暴力、憎悪、偽善と闘う自由な精神を持つ寓話作家だと語っていました。モッキーは笑いとともにそれらと闘うことを欲しました、なぜなら敵を嘲ることこそが最大の武器であり、そのことによって観客に本当の満足感を与えられると信じていたからです。幻想的、あるいはシュールレアリスム的な要素を含んだ風刺、寓話、それらが世界について語るためにモッキーが選んだフォルムでした。俗悪であると攻撃されもしましたが、その逆で、モッキーの映画はある種の純粋さ、無邪気さを提唱し続けました。永遠の反逆児モッキーは、現実の問題に対して不条理な、あるいは詩的な解決策を見つけていく彼の映画の登場人物のように、人生を変えたいと願っていました。モッキーは自分の映画のもっとも忠実な観客とは、子供たちと移民労働者だと述べていました。その本来のもっともいい意味で、ジャン=ピエール・モッキーとは大衆的映画作家だったのです。

 

ご静聴ありがとうございました。

 

 

訳註

(*1)『ヘルザポッピン』1942年にH・C・ポターが監督した傑作喜劇映画。
ヴォードヴィル・コメディ・チーム、オール・オルセン(1892−1963)&シック・ジョンソン(1891−1962)作・主演のヒット・ミュージカルに基づく映画版で、最も狂った喜劇映画といわれている。

 

(*2)『国民会議の夜』(Une nuit à l’Assemblée nationale』(1988年)

題名はマルクス兄弟の『オペラは踊る(Une nuit à l’opéra)』への目配せとなっている。

 

(*3)「奇跡の小路(cour de Miracles)」とは、泥棒、物乞い、ホームレス、売春婦らの集まる巣窟。もともとはアンシャン・レジーム期のパリの一角に占めていたスラム街の呼び名であり、昼の間は不具を装い、道行く人の憐れみを買い、施しを受けていたスラムの住人たちが、夜になってこの界隈に戻ってくると、昼間にせしめた銭を懐に戻ってきて、ときに儲けた金でどんちゃん騒ぎをしたという習俗から、この小路はあらゆる病気や障がいを「癒す」奇跡をおこすものだと、皮肉を込めて呼ばれた。ヴァルター・ベンヤミンの〈パサージュ論〉にも以下のような記述がある。「パサージュ・デュ・ケールにある、ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』で有名なクール・デ・ミラクル〔「奇跡小路」──乞食や泥棒などの集まる場所〕と呼ばれるドヤ街の他にも、いくつかのクール・デ・ミラクルがある。」(W・ベンヤミン『パサージュ論』今村仁司・三島憲一ほか訳、岩波現代文庫より)

 

オリヴィエ・ペール

1971年フランス生まれ。ソルボンヌ大学で文学を学んだ後、シネマテーク・フランセーズで、シネマテークの上映プログラムの企画に携わる。その一方で、「レ・ザンロキュプティーブル」誌などで映画批評を執筆。2004年から2009年まで、カンヌ国際映画祭監督週間のディレクターを務め、2008年から2012年までロカルノ国際映画祭のアーティスティック・ディレクターを務めた。同映画祭のディレクション中、富田克也の『サウダージ』、三宅唱の『Playback』などがコンペティションに選ばれ、2012年には青山真治に金豹賞(グランプリ)審査員特別賞が贈られた。2012年以降はアルテ・フランス・シネマのディレクターを務め、フランスをはじめ、世界中の映画作家の作品を支援し、共同製作している。またアルテのサイトにて定期的に映画評も執筆し続けている。

 

 

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  • 2020-07-09 - 2020-09-27
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  • アンスティチュ・フランセ東京 エスパス・イマージュ
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