粒子、表面、断片。60年代に対峙する日本映画監督たち
60年代というのは映画にとってはヌーヴェル・ヴァーグの同義語である。そしてそのラベルの背後には実験、不敬、美的かつ政治的な革命という思想が大島渚、今村昌平、あるいは吉田喜重などの映画作家たちのひとつの同じ足取りの中に集められている。しかしながら、我々が近づくにつれ、この「ヌーヴェル・ヴァーグ」は、散り散りになってしまう。共通している主導的な原理をひとつも見つけられないのだ。そして独立プロから撮影所システムまでに及ぶ撮影基盤の多様化や、日本の映画風景の根本的な変化を通じて60年代はむしろ巨大な散逸のエネルギーを開放したといえるだろう。実際のところ、しばしば互いに還元できない多様な美的戦略に呼応しているだけによりいっそう決定的である散逸が、粒子、表面、また断面のしるしの元に置かれた経済高度成長期の新しいパラダイムに対峙している。マチュー・カペル(映画研究者)
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- 2018-05-27 - 2018-05-27
- 15:15
- 開場:15分前
- 入場無料。
- アンスティチュ・フランセ東京(03-5206-2500)
- 整理券は、当日10時30分から11時10分、また14時45分から15時25分まで配布いたします。
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アンスティチュ・フランセ東京 エスパス・イマージュ
〒 162-8415
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