フランスのナント市に生まれたユダヤ系の写真家で著作家のクロー
◆プログラム
12時30分: 開場
13時~ :開会挨拶・趣旨説明 長野順子(大阪芸術大学)
13時10分~13時50分:「クロード・カーアンとセルフポー
13時55分~14時35分:「クロード・カーアン:永続的カー
14時45分~15時半: 質疑応答
15時50分~15時55分 :映画の解説
15時55分~17時10分 :映像上映 サラ・パシル『Magic miroir』
https://vimeo.com/76804789
思春期の終わりからセルフポートレート写真を撮り始めたクロード・カーアンは、今風に言えば「自撮りする」若者たちの先駆者か。そうとも言えようが、違いもたくさんあるだろう。
モード評やスペクタクル評などの時評や、パロディ的人物伝(「ヒロインたち」)、政治批判の文書(『賭けは始まっている』)など、執筆作品は積極的に公表していた彼女が、なぜセルフポートレート写真については公開する意思を持たず、ただ撮りためて、パートナーのマルセル・ムーアほか限られた友人たちだけに見せていたのか。なぜ日のあたる屋外でのセルフポートレート写真は少なく、屋内で、時間をかけて作りこんだ仮装写真を多く制作したのか。なぜ時にはお面までかぶるなど行き過ぎた仮装をし、また時には剃髪するなど自分を限界まで削ぎ落とすようなことをして、結果彼女かどうかの判別が不可能なまでに歪曲されたセルフポートレート写真を制作したのか。
現代の若者たちの「自撮り」とはかなり異なるカーアンのセルフポートレート写真は、彼女の自己探求や、社会に対する反抗のしかただけでなく、二十世紀の両大戦間における写真や写真家の地位や役割、彼女の自己表象と同時代の女性ポートレート写真との隔たり、当時の女性芸術家のなかでの彼女の特殊性なども浮かび上がらせる。
作品を通して見えてくる、彼女の切ないほどに不器用で、かつ自分自身にも同時代社会にも真摯に向き合う生き方には、共感を覚える現代人も少なくないのではないだろうか。
・パトリス・アラン「クロード・カーアン:永続的カーニヴァルを宣言する」
クロード・カーアンの文学作品と写真作品はいずれも、刻々変わる海の色合いや水の反映のようにその姿をくらますラディカルな主体性を示している。その並み外れた熱狂によって、彼女は「エゾテリック劇場」〔前衛劇運動〕から革命的極左主義の少数派へと導かれていく。カーアンは、自分の名前、遺伝的特質、社会的血統、性別を疑問に付す。叔父の象徴主義作家マルセル・シュオッブから受け継いだ仮面趣味に忠実な彼女は、さまざまな見かけをひっくり返す。
自分を写真に撮り、自分を演出するという方法を通じてリュシー・シュオッブは、自分自身を変幻自在できわめて矛盾含みの作品のテーマにすることで、姿を現す経験を多重化する。両性具有、両価性、異性装、仮面の戯れ、鏡像の戯れ、、、こうした操作を通じて、未規定こそが、転覆の唯一の真なる原理そして創造の唯一の真なる原理として明らかになる。一つの固定したアイデンティティへの帰着をこのように拒否することが、彼女の写真による実験作業を貫く変身の実行に連なっている。こうした「自我の演劇化」が重きをなしてきた1920年代に、彼女は次々に、スキンヘッド・白いポケットチーフ・黒のスーツでダンディなポーズを取ったり、唇や目を過度に化粧し二つのフェルトの乳首をつけた胸で女性の属性を人為化して強烈な女性性をさらしたりすることになる。こうしてカーアンは、自我を絶えず問い直すというきわめて特異な企てで自らを演出することを通して、曖昧化〔非識別化〕の意志に文字通り〈身体を与え〉ようとする。「永続的カーニヴァルを宣言する」こと、それは、あらゆる条件付けを拒んで、世界の未完了〔未規定〕部分を体現すること、驚異への性向を持ち続けること、そして絶えず再占有される「時間」をつねに言祝ぐ必要性を明言することになるだろう。というのも、仮面をつけることで、世界の秩序を支えている同一性儀礼を粉砕しうるからである。性別の問いを越えて、クロード・カーアンが疑問に付しているのは、まさに社会的表象の基盤そのものなのである。
- 2018-03-10 - 2018-03-10
- 13:00 - 17:00
- 入場無料
- クロード・カーアン展覧会実⾏委員会
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アンスティチュ・フランセ関西 稲畑ホール
〒 606-8301
左京区吉田泉殿町8 京都市 京都府